父性の復権(後半)
どーもまつまつです。
今日の本の紹介は
林道義氏の
父性の復権
です。
この本は以前紹介した樺沢紫苑氏の「読んだら忘れない読書術」の中で紹介されていた本です。
樺沢氏がオススメしている本からいくつかを購入して今読んでいます。
前半はこちら
今回の記事では最初の4、5、6章の部分で気づいた点を紹介したいと思います。
目次
後半で気づいたこと
母性支配による正義感の欠如
現代社会は極端に父性が不足しており、そのための色々な現象が噴出しているとこの本では言っています。
ここでは、「満足しているいい子達」は実は自我が弱く、発達が未熟で、フラストレーションを持った子供たちであり、そのような子どもたちが、いったんそのフラストレーションを爆発させてしまうと、自我による抑制もなければ、道徳的規範(父性)による歯止めもなく、全くの無制限で、無秩序ないじめ方をしてしまうとこの本では言っています。
ここでこのいじめっ子たちが特にこだわるのが「チクる」という行為です。「チクる」ということは子どもたちの間では、最大の罪悪と捉えられています。この罪悪感に子どもたちが囚われているのは、いかに大人の介入を恐れているかを示しています。社会規範の基準が持ち込まれ、それによって裁かれることは彼らにとって致命的なのです。いじめがいけないことはわかってはいるが、やめられない。というのが、「チクる」ことを恐れている証拠になります。
また、直接いじめている子どもだけでなく、周りにいて傍観したり、無関心を装ったりする傾向もまた、父性の不足を表しているとこの本では言っています。そこには、我が身の安全のみを願い、正義や勇気といった徳目に全く無関心な母性のマイナス面が影響しているとこの本ではいっています。
この特徴はアメリカと日本の中学生を対象にしたある調査で浮き彫りになっています。
「友達をいじめることが中学生として絶対にいけないことだと思うか?」という質問に対して、「絶対にしてはいけない」と答えた子どもたちの割合が、アメリカの子達は94、4%だったのに対して。日本の子達は64、2%だったのです。
この結果は日本の中学生がアメリカの中学生よりも規範意識が弱かったり、正義感がないことを示しています。このような傾向にある以上、いじめに対しての傍観者が増えることは容易に想像できます。
また、いじめに対する対応について、アメリカでは「止めに入る」「先生に言う」のが、約半数以上なのに対して、日本では「そっとなぐさめる」「見て見ぬ振りをする」のが半数以上の回答でした。
このような結果は、母性主導の躾が大きく影響しているとこの本では言っています。母親は我が子の安全を第一に考えます。母親たちの中には、我が子がいじめられるよりは、いじめの同調者の中に入っていると安心する方だっているそうです。
このように父性が不足することによって、現代社会では、いじめを悪いと思わないと言う子どもたちや、そのいじめをただ傍観している子が増えている現状になっているとこの本では言っています。
アクの強い父親に
では、その「父性」を復権していくためにはどうしていけばいいのか?この本では「親子の対話」が重要であると言っています。対話とは相手の気持ちや意見を聞き、それを自分の意見と噛み合せると言う作業です。
しかしここでの「対話」と言うのは子どもの気持ちを聞いてあげると言うような母性原理のことではなく、押し付けでもいいので、自分の理念、ポリシー、メッセージを伝えることだとこの本では言っています。
「押しつける」と言う表現が誤解を生む可能性があるので。「語る」と言う言葉に置き換えて理解していただければと思います。まずは、父の考えを一方的に話す。そこで、子どもは賛成と思う場合もあれば、反対と思う場合もあります。たとえ反対であっても、そう言う価値観を持っている人がいるのかというように、参考にはなるはずです。
父は、政治や社会現象、自分の人生観、人との付き合い方、様々な場面で機会があるときに語るべきだとこの本では言っています。
このときに、子どもたちが、「何度も聞いたよ!」と拒否したり、子どもの方から質問してくることや、批判を言ってくることもあるでしょう。そういうときに、ムキになって反論してはいけません。意見は一方的にいうが、それに対する判断は子ども自身に任せるのです。
あえて父親は自分の意見をドンと言ってみよう。アクの強く、強烈な印象を残すぐらいがいい。とこの本では言っています。
抽象的な徳への関心を
子ども躾けるときに物事を「してはいけない」理由を教えるときに「人に迷惑をかけてはいけないから」という理由だけでは、不十分な気がしませんか?たとえば、授業中にあくびをする、制服を着崩す、上履きのかかとを踏むなどの行為はそういう観点からすれば、「人に迷惑をかけていない」部類に入ってしまうと思います。
そこで、いけない理由として、もっと人間として大切な「品位」や「美しさ」「礼儀」「気品」「ふさわしい」などという観念も教えてもいいのではないかと言っています。
こういうことを説明することは難しいことではありますが、それをしていかないと「人間」としての教育は成り立っていかないのです。もっと抽象的な徳目の教え方を学んでいかないといけないとこの本では言っています。
この本では、ここの規則を定めて形式的に守らせるのではなく、抽象的なモラルの原理を教えて、それを日常的に応用する訓練をすることが必要であると言っています。
たとえば、「道徳」の教育というと、命の大切さを教えるとか、自然に触れる体験をする、友達と協力して何かをすることも確かに大事なことですが、それらは、母性原理からの人間教育であり、父性原理からの人間教育とは違うとこの本では言っています。
ここでいう父性原理からの人間教育とは、人間としての品位を保ち、欲望や感情をコントロールし、善悪の区別をつけるようなことであり、してはいけないこととしてよいことの「けじめ」をつけることは最低限必要であると言っています。これは単に優しさだけではなく、父性的な厳しさを必要としています。
善悪を教えるということは、人それぞれ価値観が違うこともあり、簡単には言えないのですが、具体的に何が善で、何が悪かを教えるのではなく、善悪の区別とうものがあるということを教えるべきだとしています。
おわりに
以上がこの本を読んでの気づいたこと、学んだことでした。生物的な「父」というものの役割から始まり、父性を実現していくための条件、父性が不足したことによる、現代社会での問題、では父性を復権していくためにはどうすればいいか?をやはりありのまま、自然のだけでなく、社会の厳しさや子どもたちの理想となれるように理想を追求していくことも大事であると思いました。
自分は父親は子どものなかで初めて見える「社会」であり、そこから社会を広げていくための基礎を作り、子どもの無限の可能性を「秩序と構成力」を持って広げてあげる存在でありたいと思いました。
また、この本では「父性」といものは何も父親だけが持たなければいけないものではなく、母親も持ってもよいと言っています。父親に父性が足りなければ、母親が担ってもよく、祖父母が担ってもいいと言っています。そのためにあえて「父親像」ではなく、「父性」という抽象的な言葉にしたと著者も言っています。
なので、誰しもが「父性」というものを担えるのであり、我が家では、自分がしっかり「父性」というものを担っていこうと思いました!!!